「百年の孤独」

ガルシアマルケスです。同じ名前の焼酎がありますが、これは本。週末に一気に読みました。7時間ほど休むことなく読み続け残すところ3分の1程になったところで一眠りした後、再び読み始め数時間後、物語は終わってしまいました。一言で言えば「ある一族の100年の記録」。しかも、それだけではこの文字数を最後まで読ませるために読者を引付け続けることは難しい。普段の私なら早々に挫折しかねない雰囲気を持つ出だしでした。それなのに不思議と先が気になり読めてしまったのはなぜなのだろう。心理描写が少なく、記録を読んでいる錯覚に陥るが、気が付くと初代は存在感を消し、二世代目へと話は移り、三世代目・・・というように話は流れ、100年以上に渡るある一族の因果をまざまざと見せ付けられました。おじさんと甥っ子が同じ名前だったりと、同じ名前が繰り返し使われるあたりに、一族の因果が次々へと受け継がれていることを表現しているかのようでした。
最後は一族から愛情によって子が誕生したことで一族の孤独が閉じられるという流れは、やっと人として血が通った途端に寿命が尽きた感を味わう羽目になり、しばし呆然。ただ、気になるのは愛情の結晶として生まれた子には、この一族の何世代前の人にもあった同様の人ではないものが体にあったこと。このまま生きていても、また100年を繰り返すだけだったのでしょうか。私にはそこを読み取ることが出来ませんでした。その愛情の結晶もこの物語の中の非現実的な現象によって消えてしまう。そうして一族は滅びる。
どの世代にも変わることなく存在したのは「放蕩」、「欲情に抵抗する術を男は持たないこと」、「女の家と家族を守る姿」、これらは、いつの時代も場所も問わず普遍なものなのだろうと思わされました。登場人物が非常に多く、誰かしらに自分を当てはめたり、知人を当てはめたりして読みすすめていました。人なんてものは案外そんなもので、簡単に分類されてしまうのではないかと思えました。そして私が一番心惹かれたのは冒頭から登場していた一番の常識人であり愛の人だった大母でした。登場する男どもは加齢に伴い勢いがなくなってくるのですが、女は逆でしたね。本来女とはそういうものなのでしょうか。作者の女に対するイメージは娼婦のようでいていつまでも母のようであり男を受け入れるもの、と受け取れました。男って女にたいしてそうあって欲しいものなのでしょうか。
長雨が人に及ぼす影響の描写を見て、サマセットモームの「雨」を思い出しました。熱帯の鬱蒼とした熱気を肌で感じた赤道直下の国での滞在を思い出しました。